こんにちは!シキです。
40代、頑張っていますか?
年齢で諦めることも出てくるなぁという年代に入りましたね。
このブログに来てくださったあなたは、なにか諦めたくないものがありますか?
私はいろいろ諦めたくなくて、ここで起死回生を掲げました。
これは、就職にコケたまま社会に出て20年、何も残せなかった40代独身女性が、総合WEBマーケティングスキル(WEBで人を集める力 ※注:意訳)を習得して、この先の人生の起死回生を果たすまでのロードマップです。
WEBマーケティングって、何をするのかわからない・・
本当、WEBマーケって何をするんでしょうね。
マーケティングの経験もなければ、経営学も学んでないので一切かじっていません。
それがなぜ、スキルを習得すると起死回生なのか。そもそも習得できるのか?
以下には、そんな私がWEBマーケティングにたどり着くまでの情けない人生が記されています。
臆病で優柔不断な行動の遅い人間ですが、
・今の生活を変えたい方
・在宅のみで収入を得たい方
・自分の可能性を諦めたくない方にとって、
こんな人でもここまで人生変えられるんだ!という希望になれば幸いです。
私の家族と育った環境
我が家は会社員の父・パート勤務の母・2つ上の姉・私の4人、よくある家族構成です。
小児喘息持ちの私は、頻繁に通院するほど体の弱い子でした。
結婚を機に会社員になった父は、もともと通信士として船に乗って海外とを行き来する特殊技能の人。
(ラピュタの冒頭、飛行船でムスカがやってたツツツツー、です)
難関の試験を突破し、見事、夢を叶えて船で世界を回った父への憧れは強く、自分も「何かを極める人」になりたいと思っていました。
幼少期〜中学校時代
幼稚園に入園からほどなく、意地悪をする子のちょっかいもあって1週間ほど登園をいやがり、母をてこずらせましたが、更なるジャイアンの登場によりうやむやに解決。
そのコミュニティがまるごと小学校に上がり、近くの保育園上がりの子達と合流するだけなので、入学は「お友達が増える」ことと、ランドセルを背負えるくらいの変化でした。
私の育った町は小さく、小学校二つ、中学校は一つ、私立へ進学する人もほとんどおらず、最終的にほとんど全員が同じ中学へ進むので、幼稚園から11年間、劇的な環境変化がありません。
一般民の我が家ももれなく町内の中学校へ進み、義務教育という名のエスカレーターに乗って、何も考えずに高校受験を迎えます。
高校は、親からの条件は「公立で通えるところ」のみ。自分で決められる境遇だったので、バスケが出来るところ、校風がちょっとゆるいところ、ある程度の進学率があるところ、少しだけ地元から離れたところ…と、自由気ままに決めました。
塾にも通い、担任が驚く合格をもぎとって高校生活への準備を始めると、環境の変わらなかった11年間にはなかった緊張感を感じるように。
ほぼ知らない人の中に飛び込むことを前に、楽しみよりも不安な気持ちが私の中で大きくなりました。
この頃から少しずつ、環境の変化を前に、臆病風に吹かれ始めます。
高校から大学へ
高校では、それまで喘息を理由に諦めてきたバスケがやっと出来て、初心者が経験者の中に混じるハードルの高さや厳しさはありましたが、キツい中にも充実を感じるようになりました。
入部して暫くの間は、体力が無さすぎて全然ついていけませんでした。合宿になると運動量に体が追いつかず、吐く直前まで追い込みました。
それでも経験者との差を少しでも埋めたくて、誰もいない早朝の体育館で自主練を続けた3年間。顧問の先生から褒めてもらった時は、本当に嬉しかった。
部活をできる時間はあっという間に過ぎ、思うようにはプレー出来なかったけれど、こんな風に努力も出来るんだと、新たな自分を知る経験となりました。
部活を引退し、大学受験の準備に差し掛かるも、またもや臆病風がスキマから差し込み始めます。
学校見学や資料請求はするのに、オープンキャンパスなど見に行くとなると途端に足が重くなる。
周りには「のんびり屋だし、どうにかなる」と言って誤魔化していたけれど、大学を卒業した後どういう道で生きていくのか、考えることを先延ばしにしていただけでした。
「滑り止めを増やせ」という担任の勧めでもう1校受験校を増やしましたが、これも、友人が指定校推薦で合格していた大学がちょうどいい偏差値だったから追加したにすぎなかった。
とはいえ選んだ理由はいい加減でも、決めた後は、経済的理由から「私大に行くなら受験のための塾通いはしない」と決め、必死で机にかじりつきました。浪人しようものなら予備校はとてもじゃないけど通えないし、1人で1年間勉強はきっと無理だ、と。
春目前、合格通知と入学書類が届きました。
大学から社会へ、のはずが_
大学でも良い友人に恵まれ、概ね真面目に講義を受け、講義以外はアルバイトに明け暮れるか友人と話し込む、2年ほどは平穏な学生時代を過ごします。
私がそんな呑気な学生生活を謳歌している背後で、義兄がもたらす問題により、我が家の経済状況は静かに崩れ始めていました。
姉のカードや私の両親名義でお金を借り(本人サインなしで借りれるヤバいところ)、知らないうちに借金が増えていく…離婚しようにも、本人は雲隠れして行方知れず。ドラマみたいな借金取りって本当にいるんだ、という恐怖を感じながら、生活も家族間もおかしくなっていく日々に心が死んでいくようでした。
時を同じくして就活時期を迎えた私は、先送りにしてきた人生設計まっしろ問題に直面。
高校までと違い、自発的な行動なしに導いてくれる人はいない。周りを見れば、氷河期を戦い抜く装備万全。就職氷河期にいた同期生たちが、水面下で着々と準備しているのは当然のことでした。
自らの準備不足に嘆きながら、食らいついて就活に挑めば良かったのに、薄っぺらいエントリーと説明会を繰り返し、面接に本気で臨むことも出来ないまま、大事な時期を過ごしてしまいます。
結局、社会に出るという最も大きな環境変化と過酷な就活に怖気づき、家の事情を理由に就活から逃げました。
第一歩
卒業後、家の中が落ち着くまでは大学4年間続けたホテルのアルバイトと、短期の派遣を重ねながら、採用情報を探す日々。在学中にサポートを受けられる環境で頑張れなかった自分が、一人でこの先の面接地獄を突破できるだろうか・・
不採用通知を眺めながら、不安を押し込めて採用情報を探す。それも片っ端から応募する程の覚悟も行動量もなく、資格勉強をするでもない。大学まで出してもらったのにただ時間を無駄にして、親に対する申し訳なさでいっぱいでした。
2年半も燻り、就いた職はコールセンター。避けたい仕事の一つでしたが、自分が逃げた末の結末。
受電業務は、電話先にいるお客様は待ってくれない、そこが想像以上の難しさと辛さでした。加えて、セキュリティのルールで紙やペンは現場で使えず、先輩からのアドバイスもメモを取れない。頭に叩き込むしかありません。その間にもお客様は矢継ぎ早に追求、それを浴びてるうちに言う事を忘れる…朝が来なければいいのにと起きるたびに思っていました。
自ら投げ出したくせに、頑張っても積めないキャリア、上がらない収入、こんな未来を想像できなかった自分が情けなかった。
その後、受電業務を離れて業務設計に携わるようになり、そこでの仕事が評価されて新たな拡販プロジェクトを担当させてもらうことになりました。
クライアントの肝いりのプロジェクトでしたが、受付開始だけが決まっていて他はまっさら。”なんで私に”と冷たい汗が流れていきましたが、今度は逃げ道がありませんでした。後にも先にもない激務で、ご飯を口に運ぶまで意識を保てず寝落ちするほど限界まで働きました。過酷でしたが、とにかく1日1日を越えることを繰り返し、無事に数ヶ月のプロジェクトを終えました。
営業職
プロジェクトの仕事が終わった後、自分には出来ないと思っていた営業職に就くことになりました。
前職で得たわずかな自信を頼りに、いざ、営業へ
と挑戦しようと思ってしたわけじゃありません。
営業サポート的な感じだったはずが、業務拡大とか何たら理由がくっついて「君らも営業に回って!」と後出しジャンケンで営業になりました。
そして、グローバル企業はいろんな意味で豪快。メンタル的にタフになりました。到底無理と思えるターゲットを掲げられるキツさも、頼れる同僚に恵まれ、少しずつ数字も伸びていきました。
とはいえ、営業スキルも業界知識もないところからのスタート。
お客様の要求は厳しく、避けようのない問題にもたびたびぶつかり、とにかく謝罪する事が多かった。本当によく謝ったな…。
そんな日々にも心折れずにいられたのは、ユーモアがあったから。
これは今までになかった発見でした。
緩い性格の仲間がいたおかげで、あれほどハードな仕事の中にも笑いがありました。上司もクライアントも懐が広く、ブラックジョークも飛び交う環境。
「1年続けばたいしたもの」と言われたのが、気がつけば6年を過ぎていました。
シビアな状況だからこそ、笑いは緊張もほぐし、メンタルケアをしてくれる。
ここでの仕事を通して、嫌な思い出もネタに変える逞しさを身につけた私は、苦境を乗り越えるカギはユーモアということを身をもって味わいました。
_父との別れ~新たな道へ_
そんなある日の出来事。仕事のストレスや愚痴を聞いてくれる優しい父に癌が発覚、ステージ4。余命3ヶ月。付き添った母に病院で「ごめんね」と言った父とふたり泣いたというのが、余計に現実味を帯びて伝わってきました。
幼い頃からの憧れだった父は、私の仕事の分野にも理解が深く、よき相談相手でした。
人間いつかは死ぬけれど、まだずっと先のことだと漠然と思っていたのに。
どうか生きて欲しい、と考えつく限りの療法を探す間に、癌は無常にも進行。最初の抗がん剤治療で一時快方へと思われたけれど、徐々に効果は減り緩和ケアへと移りました。
入院した父の様子を見てから出勤するため、まだ暗いうちに起床→病院→仕事→できれば病院、を繰り返しました。
この時ほど、場所を選ばずに仕事ができたらと思ったことはありません。
休めば収入に響くので仕事も休めず、容体変化の電話を受け、会社を飛び出しても病院まで1時間半。歯痒くて苛立たしくて、不甲斐なかった。
宣告から7ヶ月後、最愛の父は旅立ち、ここから立ち直れなかった私は休職させてもらうことになりました。
正社員ではなく業務委託なので、本来なら切られておかしくない話でした。けれど心優しいマネージャーは席を空けて待ってくれた。にも関わらず、営業活動までモチベーションを持ち返せずにそのまま退職。ここで、またも私は逃げ出しました。
今考えても情けなく、心から後悔して止まないことの一つです。
苦々しい後悔とともに、「場所を選ばず仕事をしたい」「収入を上げていきたい」という思いは、はっきりと胸に刻まれることとなりました。
_踏み出す_
退職と前後し、以前ボランティアで関わった方へ気分転換に連絡をすると、組織として発展していて、退職後に改めて連絡すると「一緒にやろう」との誘い。
しかしここでも業務委託、また正社員にはなれないと落胆するも、今までとまったく違う世界でやってみるのも悪くない、と心を決めました。
コンサート企画という新しい畑で、ようやく新しい仕事での自分の動き方もわかってきた矢先、コロナ禍が襲いかかります。
全公演中止、再開の目処は立たず、嫌というほど耳にした「不要不急」という言葉。
音楽は、ライフライン等とは違うベクトルで必要なものだとの信念があって、思い切ってこの仕事に飛び込んだのに…”不要”という言葉に、自分が不要と言われているようで、胸が詰まりました。
直に、じっとしてても仕方ない、とWEBで音楽を届けることに。撮影も編集も初めてのことで、まるでわかりません。Youtubeを参考に、ただ撮られた演奏を編集してアップロードするのみでした。
付け焼き刃の戦略もないアクションは、特に日の目を見ることもなく、右往左往しているうちに徐々に日常が戻ってきました。
一方、経済性のない仕事を本業にし続ける不安が、心の片隅に残りました。
_本当にPC1台で戦えたら_
動画編集自体は何も実を結ばなかったものの、”何か極めたい”という幼い頃の思いを呼び起こしました。それで、本当にPCだけで働けないかな…そんな思いのままインスタを眺めていたある日、私の目に突如飛び込んできた
「PC1台で自由に働く」の文字。
リモラボ?知らないけど、明日で募集終了と言ってる。
とりあえずZoom説明会に申し込みました。コロナ禍で考えた今後。折り返しの年齢に入り、一人で生きていくかもしれないのに、頭打ちの月収、老後の貯金、資産形成もできるかわからない。何歳までこうして働くんだろう。将来への不安しかなかった私の胸に
このまま人生終わるのはイヤだ!という思いが弾けました。
そこからの行動は今までで最も早く、また良い選択でした。臆病で、腰が上がらない私がなぜ、初めて聞いたオンラインスクールに入会を決められたのか?それは、
・案件獲得までの道のりを、簡単と言わなかったから。
・案件獲得までも獲得後も、サポートが充実していたから
インスタの性質上、スキル習得から案件獲得までに必要な時間がある、と明快な説明。「スクール卒業してすぐ!」「お仕事斡旋!」と耳障りの良い言葉で釣ることはありませんでした。そして、実際に在宅ワークを始めると直面する、
・単価の低さ
・単発案件の収入の不安定さ
・獲得の難しさ
・相談相手のいない孤独さ
これらの悩みを網羅していたから。
私が幸運だったのは、リモラボについて余計なことを詮索する暇なく説明会に参加できたことで、その場の納得と熱量のまま、行動に移せたこと。
うじうじ考えても何も始まらず、何も残らないのは、私の20年間が証明している。
仮に「ここじゃなかった」と思っても、”違った”という答えが得られたということ。この前進へのマインドを持てるようになったのは、リモラボとの出会いが間違いなく影響しています。
年齢や得意不得意、今の仕事の勤続年数…40年生きていれば身軽ではなく、易々と捨てられないものも多い。それでも、人生を変えたい方がこの選択肢を知らないとしたら、私なら「知りたかった!」と思う。だから、このブログを書きました。
このブログを訪れた方の中には、既にスクールに通ってる方もおられるでしょう。それを否定するものではありません。
もしその道で迷ったり立ち止まった時に、引っ張り出せる選択肢になれば、と思います。
その後リモラボで学び始めた私は、インスタの人を集める力に驚きつつ、インスタだけでは届かない人、応えきれないニーズが増えていることも知りました。勿論、インスタが集客ツールとして主力ではない存在になる未来も、あるかもしれない。
けれど、今、WEBで人を集めることができる人材が求められている事実は変わらず、今後の変化に対応できる基礎力を身につけることが大事。これは私が言ってるのではありません。この界隈を現役で走るトップランナーの方々が言っているのです。
「そういう分野のプロって既にいるでしょ?」とお思いの方。インスタ、Youtube、Youtube Shorts、TikTok、X、ブログ、WEB広告…これらを網羅し、全て一通り自分でできる力がある人材って、どれほど活躍してるでしょうか?
それこそが、月50万に到達するヒントです。
そして私が、今、WEBマーケティングスキルを身につけようと思った理由です。
このブログでは、これらのスキルを身につける道筋をステップ形式で公開し、人生を変えたい方の道標になることを目指します。
最後までお読みいただきありがとうございました!